東日本大震災が発生してから継続して東北支援を行っている鷺山小学校児童会。子ども達の支援が東北でどのように役立っているのか確認すると共に、現在の東北の復興状況について、鷺山小学校大野教頭先生が東北各所を視察されました。今回はその報告を掲載いたします。
平成26年8月6日~8日に東日本大震災で大きな被害にあった仙台に行ってきました。10年前に宮城県から岐阜県に派遣され、鷺山小学校に勤務されていた亀井先生に案内をお願いしました。亀井先生は鷺山小学校で4年・6年・6年と担任として勤務されました。今年の1月の成人式に宮城から来られ、祝辞を述べられたと聞いています。
突然の電話依頼にもかかわらず、「大歓迎します。」と言っていただいた言葉に甘え、石巻市の「門脇小学校」と「大川小学校」に案内していただきました。
【石巻市立門脇小学校】
【石巻市立大川小学校】
門脇小学校の周りは雑草が生い茂り、一面の荒れ地でした。震災の前は町が広がっていたところとは信じられませんでした。学校は、海からすぐ近くで、津波の被害が予想されるところでした。記念碑として解体せずに残すということをお聞きしました。
大川小学校は、海から4㎞離れていて、津波を想定した訓練はなされていないとのことでした。学校があった町は高い堤防に守られ、川底よりも低い場所に広がっていました。学校のすぐ前の山に逃げれば助かったのですが、木がうっそうと茂っていました。登山道もなく、学校での学習活動にも使用されたことがないそうです。地震の後、山に逃げることが決断できるかどうか………?
大川小学校を見学した後、南三陸町まで案内していただきました。自動車でおよそ1時間の距離でした。途中たくさんの土を積んだダンプカーと出会いました。いたるところで「かさ上げ工事」を行っていました。海岸沿いを進んで行くと、家の土台だけが残っているところがたくさんありました。また、山の杉の木が枯れているところも見かけました。塩水につくと杉は枯れてしまうのです。津波がこれほど高い場所まで到達していたことに驚きました。
◆南三陸町◆
南三陸町は荒れ野でした。町があったとは信じられません。その中に廃墟のような建物がたっていました。左端の建物は『高野会館』です。この建物では、震災が起こった時に高齢者の芸能大会が開かれていました。たくさんのお年寄りが参加していて、津波から屋上に逃げることができて命が助かりました。
真ん中の建物は『防災庁舎』です。この建物の中から、避難情報が流されていました。
たくさんの人がこの防災庁舎に逃げてきて屋上に上がったそうです。しかし津波が屋上まで襲ってきてほとんどの人が流されてしまいました。また、ここから津波情報を発信し続けていた遠藤さんも逃げることができず亡くなられたそうです。
南三陸町では人的被害が少なかった地域です。それは、津波に対する避難訓練をしていたことと、小学校・中学校・高校が山の中腹と思われる高台にあり、避難場所に指定されていたことです。そんな高いところに学校を作ることに批判があったそうですが、ここに逃げることでたくさんの人の命が救われました。
今回の津波でいたるところで「かさ上げ」工事が行われていました。海岸線のすべての土地を5~8mかさ上げすると聞きました。何十年もかかる壮大な工事のように思われました。しかも、かさ上げしたところは、危険箇所に指定されて家が建てられないそうです。
その日は高台にある泊崎荘に宿泊しました。ここは、高台にあったため津波の被害を受けませんでした。震災の後、半年ぐらい避難所になっていたそうです。
2日目は、南三陸町の被災された方の仮設住宅がある登米市に向かいました。石巻市から登米市までは、南三陸町民のための無料バスに乗せていただきました。
登米市まで1時間半ほどでした。途中には、たくさんの停留所がありました。多くの人が乗ったり下りたりしました。町民の足となっていることを感じました。災害ボランティアのテント前の停留所もあり、たくさんの人の支援が、今も続いていることを感じました。
◆登米市仮設住宅◆
登米市の仮設住宅では、自治会長さんに出迎えていただきました。そして集会場では班長さんに集まっていただいていました。班長さんから、震災当時の様子をお話いただきました。
○海岸沿いは、津波を予想していたため避難訓練を何度も行っていました。迅速に避難できたのはそのためです。
○海岸沿いにある新築アパートの屋上に逃れました。足もとまで水が来ました。その晩は屋上で過ごしました。食料がありません。寒かったです。
○地区を見回り避難を呼びかけました。最後に避難しました。
○地震の後、すぐに高台の小学校に避難しました。たくさんの人が集まっていました。
○高野会館の屋上に避難しました。流されていく人が助けを求めてきましたが、何もできませんでした。
○命があった私たちと亡くなられた方との差は紙一重です。助かったことが信じられません。
○食料がなかったことと、女性のトイレが一番の問題でした。避難するときには必ず何か食料を持っていくとよいです。
会長さんは、次のように話されました。
「震災当時の様子を聞くことはタブーになっていました。今までお互いに聞きあったことはありません。全国の方々からたくさんの支援をいただいていて感謝しています。」
鷺山小学校が行った支援はスロープです。高齢者や病気の方が車椅子を使って家の玄関まで行けるようにスロープを贈りました。「家への出入りが大変楽になりました。」と感謝しておられました。
◇集会所に貼られていた鷺山小学校のメッセージや鷺山小学校便り◇
また、集会所には鷺山小学校が送ったメッセージが大切に貼られていました。
班長さん方に仮設住宅で足りないものをお聞きしましたが、「被災して以来大変な生活をしてきたので、今の暮らしに満足しています。仲間もでき楽しく暮らしています。」と答えられました。
会長さんの仮設住居にも案内していただきました。4人までは、4畳半二間で、5人になると、もう一軒貸してもらえるのだそうです。いろいろな家財道具を置くこともできず、とても狭く感じました。子どもがいても勉強机を置くスペースもないそうです。また、この仮設住宅に集まっている人たちは、いろいろな場所から来ておられるので、地域コミュニティがすべてなくなってしまっており、新しい仲間関係を築くことのむずかしさを言われました。自治会もなかなか世話をする方がなく、自治会ができない場合も多いと聞きました。今、高台に宅地を造成中なので、そこに家を建てて移ることが目標だと話しておられました。
◆仙台市荒浜自治会見做し仮設住宅◆
自治会長さんに津波の被害にあった仙台市荒浜地区を案内していただきました。海からすぐ近くで海水浴場が広がっていた風光明媚な場所だったということですが、今は一面の荒れ野でした。津波警報で地区の人は荒又小学校に避難しました。水は2階の途中まで来たそうです。学校の中に入ると1階がめちゃくちゃに壊れていました。横にあった体育館は流されてしまったそうです。体育館避難では、全員助からないところだったということです。
会長さんの家は、新築して5年ですべて流されてしまいました。今は海岸から1.5㎞は、家を建てられない地区になってしまったとのことでした。道路を行くと家の土台だけが目につきました。
【仙台市立荒浜小学校全景とその1階の様子】
【残った神社の鳥居】
仮設住宅は、古いJRアパートでした。5階建てですがエレベーターもなく、急な階段で困っていたそうです。手すりがなければ住み続けることができなかったと言われました。また、集会所には鷺山小が贈ったメッセージが大切に貼られていました。東北の完全復興はまだ遠い先だと感じました。また、支援は『モノ』ではなく「心」だということも感じました。子どもたちに鷺山小学校の支援の心が届いていることを伝えたいと思います。