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岐阜北法人会青山支部講演会『関ヶ原合戦こぼれ話』

2017.07.05(水)

平成29年6月22日(木)に鷺山公民館にて、岐阜北法人会青山支部講演会『関ヶ原合戦こぼれ話』が開催されました。

講師には、関ケ原町文化財保存審議会委員長の高木 優榮さんをお招きして、天下分け目の決戦である『関ヶ原の合戦』についてお話頂きました。

豊臣秀吉の死後、豊臣政権を支える保守の石田三成の一派と、政権奪還を目論む革新の徳川家康の一派に別れて、政(まつりごと)が行われた結果として、『関ヶ原の合戦』が巻き起こり、家康勢が勝利し、三成勢が憂き目を見る結果となったと見ることが出来ると説明頂きました。当初、この合戦は長期間を要するとみられていましたが、蓋を開けてみると、半日程度で決着がつくこととなりました。

『関ヶ原の合戦』は幾度となく、時代劇、大河ドラマで取り上げられた題材ですが、その映像では、広い平原で東軍、西軍睨み合いの末、戦いが始まったように描かれる事が多いですが、実際はそんなことはなかったようです。

当時の関ヶ原には、畿内へ繋ぐ中山道と北陸へ繋ぐ北国街道を繋ぐ交通の要衝にあり、多くの集落も存在する場所でありながら、合戦現場となる異例の事態であったであろうと説明をしてくれました。

関ヶ原村中心部は、元禄期には人口1,300人、家屋数350軒存在したという記録もあることから、集落が戦場となってしまったことを解説してもらいました。

また、もう一つ悲惨なこととして、合戦が起きた時期について言及されました。関ヶ原の合戦が起こった旧暦9月15日は、現在の10月21日にあたり、丁度米の収穫期にあたります。

そのような時期に合戦が起きたものだから、関ヶ原に住んでいた村人の生活が一変してしまったことは容易に想像がつきます。

合戦前には、山中村の村人は、石田三成の要請を受けて、浮田(宇喜多)秀家や大谷刑部の陣の構築の協力をしていたそうです。それにあわせて、郷士や名主は合戦の被害を最低限に抑えるため、山中へ村人を避難させる活動も行っていたようです。実際の戦で、陣を構えるための協力を仰ぐために、陣形を村人に教えることは、東軍に情報を漏洩する恐れも考えられたでしょうが、そこが、石田三成が山中村の村人を信頼していた証でもあるようでです。いつの世も、政を治める者と庶民との信頼関係がなければ、国は形作られないものです。

鷺山との縁も深く黒野城主として土地を治めた領主 加藤貞泰についても、触れてもらいました。加藤貞泰は当初西軍石田三成についていましたが、後に東軍の東軍に寝返り、井伊直政の下で武功を上げ黒野四万石は安堵されました。関ヶ原の合戦終結後、家康軍本隊が近江に進軍する際は、その護衛にあたったそうです。

加藤貞泰は、その後も領民にとってよき城主として、租税の特別免除や楽市の開設、治水工事の推進、諸役の免除などを行い、17年間の間黒野を治めていたようです。

さて、関ヶ原の合戦終了直後の様子に戻りますと、戦が終わった後の村の様子は無残に壊れた集落、そこら中でみられる命を落とした武士の姿が見られ、言葉では表現し尽くせない惨状があったことでしょう。

村を立て直すために、「戦は終わった!早く山を下りて、麦を植えるぞ!」と、叱咤激励する道中奉行の想いとは裏腹に、村人は雪が降りしきる正月頃迄村に戻ってこなかった者もいたそうです。

実際に合戦場となった関ヶ原村の復興には100年の時が必要だったそうです。

時は超えて、現在では、関ヶ原も合戦場を巡る『歴女』が訪れるようになっています。そのような歴女の人気では、大谷吉継が最も高く、次いで石田三成、徳川家康、島津義弘など名だたる武将が続くそうです。今に受け継がれる当時の武将たちの生き様が、私たちを魅了して止みません。

講演の最後には、素敵なハーモニカ演奏も披露して頂き、あっという間の関ヶ原のこぼれ話となりました。説明されないと分からなかった歴史の事実。それは、今なお私たちが生きる上で、色々な教訓を与えてくれるものばかりでした。